こんにちは、花山かずみです。
小学1,2年生のとき、友達の石毛君と酒屋の裏で日本酒の
コルク栓を集めた後、ピーナッツ畑で土器集めをしました。
ちょっと掘ると丸だったり多角形だったり
ちょっと欠けていたりの素焼きの土器がお手軽に発掘できます。
この辺にも「はじめ人間ギャートルズ」の世界があったのかなー
マンモスの肉おいしそうだったなーなんて思ってました。
ところが・・・
違いました~ギャートルズじゃありませんでした~
それは「泥めんこ」だったのです!
「めんこ」は子供の遊び道具としての一面もありますが
(紙のめんこと遊び方は違います)
どうも千葉付近は江戸時代から五穀豊穣や作物が
病気にならないように虫がつかないようにと祈願したりで
畑にまかれていたそうですが定かではありません。
日本各地にその地方独特の「めんこ」があるのが(着彩の博多の泥めんこ⇒)
わかりました。そんなフツーの子ども達の他愛もない
遊び道具は遊ぶ子がいなくなると作り手がいなくなり
残そうという意思がないといつの間にか消えてしまうのかも
しれません。遊び道具だけではなく生活の中にいろいろ
ある気がします。
自動改札以前の駅員さんがリズムを刻みながら切符を切ってくれた
ハサミとか八百屋や魚屋にあったバネのついたビヨヨーンとのびる
籠のつり銭入れとか、夏に来ていたリヤカーの風鈴売りやさんとか。
なくても困らないけど時々ふっと懐かしくなります。
それと一緒にその頃の記憶の断片がフッと浮かんできます。
ある日こっそり土の中から出てきた何十年か前の茶碗のかけらだって
いつかの誰かのお茶碗で、ご飯が盛られて、その周りには
誰かがいて、その時の話し声、柱時計の音、路地を通る
通る物売りの声、味噌汁の香り、魚の焼ける香ばしい匂い
そこにいた誰かの思いなんか記憶してるんじゃないかな
なんて思います。
そんな偶然出会った「かけら」の思いを想像してみるような
お話を描きたいと思っています。地味だけれど・・・
少々長文になりました。最後までお付き合いありがとうございました。